そのちいさなおと(17)

「旅?」
その日の夜、音がスーパーの買い物袋片手にやってきた。
「そうなんだよ」
私はシンクのそうじのあと、お風呂、洗面台、テレビの裏、ピアノの鍵盤、と全部磨いてへとへとになって眠っていた。そこへタイミングよくアポなしで、ごはんをつくりに来てくれたのだ。
「旅かぁ。うーん」
そんな彼女にいれてもらった紅茶を飲みながら今朝方の不可解な電話の話をすると、私同様、不可解だ、という表情をした。
「アイツはいちいち不可解すぎるんだよ」
「ははー。そんなところも好きなくせにー」
「ちょっと音! 何言ってんの!」
「照れなくていいってー。もー。」
「照れてない!」
子供のころとまったく変わらない調子で笑い、嫌味を微塵も含んでいない調子でからかわれると反応に困ってしまう。

私は音みたいに素直じゃないから。
どういう風に反応すれば変じゃないのか、わからなくて。
「はいはい、わかったってー。かわいーなーもー」
「かわいいのは音でしょうが!」
やけくそになって叫んだら音はふふふと笑った。
まったくこの子にはかなわない。
「あ、そうだこういうときはアズサ君博士に聞いてみたらいいんだよ!」
「博士?」
首をかしげる私に盛大に頷いて携帯電話を開くその横顔だけでその相手がわかってしまった。博士、か。確かに彼はそっけないふりをしていつも危うげなアズサのことを気にかけているような気がする。
しかし博士とは。彼女にそう思われてしまうくらいなのだろうか?と思ったらなんだか可笑しかった。
今度忠告しておかなくっちゃ。飯田君に。
「すぐ来るって」
「よかったね」
「うん」
普通に頷いてから「違うよ良かったのはらあちゃんでしょ!」と照れる音にさっきの仕返しだよー、と笑って、ああ、私も他の人から見たら「音ちゃん博士」なのかもなどと思った。

***


「旅? 知らなかった、今日?」
そんなに早く来られるものなのか、というほど早くにやってきた飯田君は、音がいれたお茶をすすりながら、私たちと同じように「不可解だ」という表情を見せた。
これは博士もお手上げか?
と思ったら、彼はああ、と言った。
「おじさんの法事、かなぁ…」
「法事?」
「うん、もうすぐ7回忌だったような気がする」
「そうなんだー。だって、らあちゃん」
二人をまるで娘夫婦のように眺めながらお米を研いでいた私に向かって音は言った。
アズサのお父さんがかなり昔になくなったというのは聞いたことがあるので、なんだそっか、と何ともいえない気分に浸っていたら、
「でもたしか月末なんだけどなぁ」
と、飯田君は首をかしげた。
そんな彼の仕草につられて私と音も首をかしげる。
あのおひとよし少年、どこまで人を悩ませたら気が済むんだ。まったく。
「ええと、話の文面は、旅に出るって、それだけ?」
今どこにいるとも知れないアズサに向かって一人で怒っていたら、飯田君は私の方に向き直って言った。
「ん? えーと、大体そんな感じ…」
何故か嘘をついてしまった。
飯田君にも何も告げず、私だけに電話をしてきた彼の真意がどこにあるのかわかりかねたから。
あいまいな私の返事に飯田君は「そうですか」と、また首をかしげた。どうやら博士は本当に今回のことについて何も知らないらしい。
「あ、いいよもう。そのうち連絡もあると思うし」
「でも…」
「いいのいいの。アイツにはいつも悩まされてるからもう今更だよ」
「らあちゃん」
「それより飯田君、音の手料理が食べられますよ、おめでとう」
「え」
「音だってそのつもりで呼んだんでしょう?」
「それはそうだけど、でも…」
らあちゃんはそれでいいのと、首をかしげて表情で訊く音に笑って頷きながら、
「おなかすいたんだよ」
と答えたら、音も納得したように頷いた。
飯田君は一人何ともいえない表情で私たちのやり取りを見守っていたが、音に「そういうわけだからご飯食べてってね」と言われると、はっと我に返ってうろたえて見せ、あわてて、「もちろん」と叫んでいた。

なんてほほえましい。

そう思いながら二人を見ていたのに、脳裏に今どこにいるとも知れない彼の顔が唐突に浮かんでびっくりする。
旅、だなんて。
次はいつ会えるんだよ、バカ。
こころの中でその顔に悪態をつくと、頭の中の彼はにやり、と笑った。
「らあちゃん、どうしたの? 顔が赤い」
「なんでもない」
またか、と思った。
気付いたらまた、前よりアズサのことが好きになっていたらしい。
前は思い出して赤面なんて、そんなのありえなかったのに。

しかし気付いたところで彼の行方は知れず。
私は本日何回目になるかもう思い出せない溜息をついた。

なんなんだまったくもう。


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