四月(3)

四月三日。
今日は学校がないので、新居の近くをうろついてみることにする。

そして早々に、小学校の頃住んでいたから、という理由で、大学の最寄駅から3駅離れたこの街にアパートを決めたのは、とんだ勘違いだったかも知れないと感じた。
そもそもボーっと生きていた小学生の頃のことなんて何も覚えていなかったし、そうでなくても景色はすっかり変わっていて、当時の面影なんてほとんど残っていないみたいだった。
通っていた小学校を見に行っていれば建て直されている始末。
もはや残っているのは町名くらいか。

ということで、小学校の頃住んでいた街の名前をした知らない街を、てくてく歩く。
手ぶらで。もう周りを見回すのすら諦めて。
何を探すでもなく、家に戻る気もなく、適当な道を、ただひたすら歩く。
そうしてどれくらい歩いただろうか。
ふと立ち止まった目線の先に、桜の花びらがひらり、と舞って。
正面に、小さな看板を発見した。
ランチセット580円。
控えめなその文字を見た途端、腹の虫がくぅ、と鳴いた。
その音に促されるようにちらりと腕の時計を見れば、どこをどう歩いたらこんなに時間がかかるんだろうか、家を出てからすでに四時間近くが経過していた。
なんだか何もかもがすばらしいタイミングだなぁ、と感動し、その小さな看板の下がった店に入ってみることにした。

「いらっしゃいませ」
渋い店構えから、なんとなくヒゲオヤジを想像していた店主は、それとは程遠い、まだ若そうな女性だった。
ただ、全体的な雰囲気がとても落ち着いているので、見た目よりは年上なのかもしれない。そんな感じの女の人だった。
「おひとりですか?」
「はい」
「じゃカウンターへどうぞ」
促されてカウンターの椅子に座ると、テーブルの上にメニューを差し出される。
「今日のランチはロールキャベツになります」
「あ、じゃあそれで」
「コーヒーか紅茶がつきますけど」
「コーヒーでお願いします」
「あなた大学生?」
「はい、え?」
流れで答えてしまってから、質問の意図が読めずに顔を上げると、店主は意味深な笑みを浮かべていた。
「お住まいは?」
「多分この近所ですけど」
適当な道を歩いてきたから自信はないけど。
「一人暮らし?」
「なんなんですか」
「うん、バイトする気ないかなと思って」
厚手のカップに注いだスープをテーブルに置きながら、店主はさらに笑みを濃くする。
「あなた、喫茶店のマスターの雰囲気、出してるんだもん。若いのに面白いから」
なんだか限りなく失礼なことを言われているような気もしたが、店主の態度があまりにもあっけらかんとしているのでどうでもよくなってしまった。
「でも俺、コーヒーとか興味ないし」
「そうなの? ハマると思うんだけどな」
しかも気付けば向こうのペースにはまっている。
なんと言うか、巧みなひとだ。
「ま、気が向いたら言ってよ。君ならいつでも大歓迎だ。あたしは片瀬鈴。はい、ロールキャベツ。コーヒーは食後にお持ちします。ごゆっくり」
カランカラン、とレトロな扉の開く音がして、店主は早口でそう言いおえると俺の前から離れていった。

ロールキャベツは空腹だったということを抜きにしても気絶しそうなほどのうまさで、さらに食後に運ばれてきたコーヒーも、これまたコーヒーにまったく興味がない俺でも感動してしまうような一品で。
なんだか漠然と、俺のような奴がバイトをしてはいけない店だと思った。
というか、きっとさっきのは冗談だったんだと思った。
が。
どうやら店主は本気だったらしい。
お会計のときにお釣りと一緒に店のマッチを渡された。
「その気になったらいつでも電話してね」という言葉とともに。
なんなんだろうか、一体。
不審に思っていいのか喜ぶべきなのかにわかに判断がつかずに「はぁ」とか言って店を出て、おつりをポケットに突っ込んで渡されたマッチを見る。

”CAFE April” と小さなロゴの横に、桜の花びらが一枚、描かれていた。


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