夜になると雨が降り出した。
ベランダに出しっぱなしだったベンジャミンが、植木鉢の上で踊っている。
それを見ながらラジオを聞いていると、瞬間、私の心はあの人の声に支配される。
必死に窓の外に心を移そうとするけど、気持ちもついてこない。 どうしようもなくなりそうだったところで、玄関のベルが鳴った。
「ハルさーん、いるー? 」
外から聞こえてきたのはナナミの声だった。
「そこの本屋さんで立ち読みしてたら雨降ってきちゃって。ちょっと雨宿りさせてね」
扉を開けると、微妙に濡れたナナミが笑いながら言った。
「それからこれはおみやげだよー」
「雨宿りなのにおみやげがあるのー? 」
私は笑いながらナナミにタオルを渡し、部屋の中へ入るよううながした。
心の中でナナミに感謝する。この子は本当にいいタイミングでやってくる。
「ほんとはね、もっと早く来る予定だったんだよ。」
髪を拭きながらナナミは言った。
抜き打ちお宅拝見だよー、と笑って。
「でも、途中に本屋さんあるでしょう。どうもダメなんだよね。私は本屋さんに恋しているらしい、どうやら。」
どうやら、ってなんだよー、と笑うと、さだかではないからと言って、ナナミはくしゃみをした。
「大丈夫? 」
私が心配して聞くと、
「えへへー、馬鹿は風邪を引かないってね。」
といって笑う。ナナミは本当によく笑うかわいい子だ。
「それよりさ、今日は抜き打ちだからお土産奮発したんだよ。食べよー。」
こうして、身動きできない雨音の夜はあっという間にいなくなり、かわりにチョコシフォンと紅茶の夜がやってきた。
「ハルさん、最近どうー? 」
「どうって、何が? 」
するとナナミは、これこれ、と、まだラジオが流れているステレオを指差した。
「どうもないよー」
どうかあったらまずあんたに言うってば。
「そっちはー? 」
するとナナミは、うーん、とうなって言った。
「それが、また全然知らない人に告白されたっ。」
雨音が、急に強くなった気がした。
全然知らない人、という言葉が、私の中で溶けてくれないから。
全然知らない人は、こっちがどんなにその人のことを知っているつもりでいても、どうしようもないに違いない。
目や、口や、髪や、手、指、声、全部好きでも、それで『あなたがすき』にならないことは、わかっている。
「あ! でも別に、知らないから嫌って言うわけじゃないよ! ああいういかにも風カンチガイ男は嫌いなのさっ! 」
静かになってしまった私に気付いてナナミは突然大きな声で言った。その声の大きさに、私は思わず吹き出してしまった。
ここにいるのがナナミでよかったなと思う。
うれしいも悲しいもどんどんやせこけて、心の中は隙間だらけで、もう壊れたかなと心配になるたび、ナナミはしっかりやってきて、私を笑わせてくれる。
人間は笑うから人間でいられるんだ
と、誰かが言っていた。
私もまだ笑えることを、ナナミはいつも教えてくれる。
帰り際、ナナミは『忘れ物だー』と言って一冊の絵本をくれた。
それは1ページに1行しか書いていない15ページくらいのもので、読んでいるうちに気付いたら泣いていた。
大事なことは一言で済むのに。
ナナミは魔法使いかもしれない。
隙間だらけの私をこんなに簡単に、笑わせたり泣かせたりするのだから。
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