「ハノンさん風邪をひく」

「市香さん、もう帰って頂いていいですから」
「そんなわけにはまいりません、ハノン様は大事な若奥様なのですから」
「やめてください21歳のコムスメに向かって若奥様なんて」
妙に広すぎるゲストルームのベッドに、私は現在寝かしつけられている。
風邪をひいた。
原因はよくわからないけどあたしは春っていう気候に弱い。
「いえいえ、ハノン様はそこらの女子さまより断然しっかりしていらっしゃいますから」
朝からやってきてかいがいしくおかゆやら鰈の煮つけやらを作ってくれているのはお手伝いさん歴25年のベテラン市香さん。
恰幅のいい、きっぱりとした性格の素敵な方だ。
さっきからあたしは市香さんと「帰ってください」「いえいえいえ」の戦いをずっと繰り広げている。
「お子様が心配なさいますし」
今日は日曜日。
市香さん、2人の子持ち。
お義父様の秘書さんの奥様。
現在反抗期と思春期。大変な時期じゃないですか。
「大丈夫ですから」
「いえ、市香さん、今日は出の日じゃなかったんですから。大丈夫です、風邪なんかたいしたことないですし、私よりもお子さんを、大事にしてあげてください」
健気に言うと。
市香さんはちょっと目を瞠った。
1言えば10響く。それがいいお手伝いさんの条件だと思う。
市香さんはその点、パーフェクトに合格だ。
「わかりました。ではお言葉に甘えさせていただきますが、何かあったら必ずご連絡を下さいますこと、それからごはんはしっかり召し上がってくださいますこと、約束ですよ」
「はい」
大袈裟なベッドの上で頷くと、市香さんは「おかあさん」みたいに笑った。

私は市香さんのこんなところが大好きで、少し、痛い。

玄関のドアが閉まる音も聞こえないような広い家、でも市香さんの気配が消えるまで耳を澄ませてから軽く息を吐き、寝返りをうって枕を抱えて眠ることにした。
いつも眠っているのとは違う客用ベッドは無意味にふかふかで、熱があることもあってか私はふわふわしたまま眠りに落ちた。



「…起きた?」
どれくらい眠ったのか、突然途切れた眠気に首をかしげると、おでこのあたりに人の体温がした。
もうちょっと、と思いながらも目を開けると、目の前にダンナ様の顔があって驚いてベッドヘッドに頭をぶつける。
「いつから眠っていたのハノン」
「わからない」
あ、ちょっと声がかすれてるな私、と思ったらすかさずそこに水のはいったコップが差し出される。
ありがたく受け取って一口飲んで、今度はこちらから質問。
「新さんはいつからそこにいたの」
「さぁ、忘れちゃった」
「なんで忘れるの?」
「ハノンの寝顔を見てたから、そっちに夢中で」
ぎゃあ。
どうしてそんな歯の浮く台詞をここで言うのかしら。
育ちのいい人って。
「何か食べる?」
「うん、キッチンに市香さんが作ってくれたおかゆとか煮物とかがあるの。あ、新さん、ごはんは?」
「僕はあとでいいよ、今はおなかいっぱい」
「なにか食べてきたの?」
首をかしげると「鈍感だなぁハノン」と笑って、新さんはキッチンへ向かった。

鈍感? なにそれ。

しばらくして戻ってきた新さんは、妙に妙な顔をしていた。
「ど、うしたの…?」
「いや、僕思いついちゃった」
「なにを」
「ずっとやってみたかったんだよね!」
「だから何を!」
サイドテーブルにお盆を置いて、新さんは何故か目を輝かせた。
怖い。
今度は何するのどんな歯の浮く台詞を言ってくださいますの?
と思って身構えていたら、顔の前ににゅっと、おかゆを掬ったれんげを差し出された。
「はい。あーん」
「うわ! アンタ若奥様か!!」
「あーんしてくださいハノーン」
「怖い、コワイよう!」
「えーダメ? これやるの夢だったんだけど」
ああやめて。
そんな捨て犬みたいな目で見るのやめて。
あたしがその顔にどれだけ弱いかわかってる?
「ね、あーん」
促され。
恐る恐る口を開くと、新さんはにっこり笑った。
ああだめ。
その顔にも弱いのあたし。

もう勘弁して。
なんだか熱が上がってきたみたい。
だって体中が熱いもの。


なんとかおかゆを食べ終わると、新さんはよくできましたと頭をなでてくれた。
その顔に何故か泣きたくなる。
熱が出たときの人間って感情の流れが変だわ。
ああ頭がくらくらする。
「ハノン?」
「んー?」
「もうちょっと眠りなさいね」
「んー」
「僕はここにいるから」
「うつるからー」
「でもいるから」
耳もとで言って、新さんはあたしの眼に蓋をした。


その手のあたたかさに、また泣きたくなった。

2003.5.15

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