「ハノンさんのセンチメンタリズム」


ゆりりんが大学を卒業することを、うっかり忘れていたのだ。
本当にうっかり忘れていた。
世に言う「主婦」というものになって早数年、毎日の感覚はあっても一年の感覚が掴みきれていなかった、らしい。
本当にうっかりしていた。

「ハノー。ちょっと何ぼやーっとしてるのー」
「あ、ごめん、これが、こっち?」
「違うよ、それはいるもの! 大丈夫?」
引っ越すことになったから手伝ってよ、と言われたのは2週間くらい前の話で。
なんとなく実感が湧かないまま手伝いにやってきたら、半分以上片付いた部屋があって、なんだか突然意味のわからない喪失感に襲われたのである。
意味のわからない、という言い方は正しくないかもしれないが。
「ごめん、なんか実感が湧かない」
「ハノはお気楽有閑マダムだからね」
「何その言い方、ひどい」
「ひどくないでしょ、事実」
「人が感傷に浸ってるときに」
「ははは、なんかいつもと立場が逆転してるよおもしろーい」
あらかた整理の終わっている箱の中身をチェックしながらガムテープで封をする作業をしながら、ゆりりんは嬉しそうに笑った。
「なんだよー、ゆりりんのばかー」
「なーにハノ。子どもみたいになってるよ」
「だって」
ゆりりんは卒業後、念願の小学校の先生になる。
今までは住んでいるところも近かったし、学生だったし、しょっちゅう会ったり、遊んだりできたけれど。
これからはそうも言っていられない。
ゆりりんは働く人になるわけで。
私の立場はなのに、高校を卒業したときからこれっぽちも変わらない。
別に今の立場に不満なんて何も無い。
恵まれすぎていて怖いくらいだ。
そんなことはどうでもいい。
どうでもよくて。
「ハノには新さんがいるじゃん」
気付けばCDコンポのコードをぐるぐる巻きにしていた私の手をぽん、とたたいて、ゆりりんは笑う。
「違うよ」
「なにが」
「ゆりりんと新さんは違う」
ぐるぐる巻いていたコードをほどいて束ねなおしながら言ったら、ゆりりんが床に手をついて覗き込んできた。
「なに」
「どうしたハノ、いつも自信満々なハノはどこへ消えたの」
「あたしだっていつもそんなにぴんしゃんしてられないよ」
「へー」
「へーってひどいな! もう、引越し屋さん来ちゃうよ!」
と、そこでちょうど玄関のチャイムが鳴った。
「ホラ来た!」
「はいはい。はーい」
笑いながら玄関へむかうゆりりんの背中を見ながら、ついため息をついてしまって驚く。
確かにおかしいかもしれないとも思う。
でも、どうしようもないものはどうしようもないのだ。
ゆりりんとはずっと一緒にいたわけで。
「もー、さっきから全然役に立たなくて困ってたのー。ハノったらなんか、センチメンタルに浸ってしまってて」
ちぇ、と思いながらCDコンポをプチプチで包んでいたら、パタパタ戻ってきた足音はふたつに増えていて、「そうなの?」と背後から覗き込んできたのは、「そりゃ、淋しいよなハノン」と言いながら頭をなでてくれる、私の大好きなダンナ様であった。
「ゆりりんはハノンの一番大事な人だもんなぁー」
「えー、それは新さんじゃないの?」
新さんの意見に対してゆりりんも反対側から覗き込んできて、謎の挟み撃ちになっている。
「どっちも一番に決まってるでしょうが! 選べません!」
思わず叫んで立ち上がったらまた玄関のチャイムの音がして、引越し屋さんのトラックがやってきた音も聞こえた。
「ほら今度こそ来た! ほら早く早く」
床に座ったままの背中を急かすようにたたくと、ゆりりんはへへへ、と笑いながら、
「お、調子出てき たね」
と、偉そうに言った。
「うるさいな、あたしだってたまには浸りたい時だってあるさ!」
「別に永久の別れじゃないしいいじゃん。ハノとは一生のお付き合いだよ心配せんでも」
「してないもん」
「あらあら。コードぐるぐる巻きにしてたくせにねー」
「うるさいうるさい」
「照れやさんだなー」
言いながらゆりりんはわたしのあたまをぐちゃぐちゃにかき混ぜて、玄関へ向かった。

別に心配なんかしてないけど。
なんか、ちょっといろいろ考えるじゃない。

と思った途端、頭の上に慣れた体温を感じた。
見上げた先で新さんはにこにこ笑っていて、なんだか泣きたくなってきた。

窓の外では白木蓮がほぼ満開で、センチメンタルな昼下がりに春が満ちてゆくのを感じた。

もうすぐ、春が来る。


2004.3.13

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