「ハノンさんピアノを弾く」

新さんはあまりピアノを弾かない。
昔はよく弾いたそうで、かなりの腕前だとお義父様が仰っていたのだけれども。
ということで私はほぼ、新さんがピアノに向かう姿を見たことがなく。
それをどうにかしてみてみたいなぁと思ったのと、毎日雨で憂鬱なのが重なって、たまにしかしないおねだりをしてみることにした。

「ピアノを教えて欲しいんだけど」。

言い出したのが先週のあたま。
新さんが楽譜を買ってきてくれたのがその次の日。
『エリック・サティ ピアノアルバム』と、『ハノンピアノ教本(解説付)』。
この本を見て初めてそういえば初めて会った時「ハノンって、ピアノ練習曲の?」とかいわれたようなことを思い出した。
ハノンは初級練習曲なんだそうだ。随分ややこしいことが書いてあるけど。

そして実際にピアノを弾き始めたのはその次の日からで、今日で10日目。
楽譜は小学生のときに習ったから読めるし、ピアノだってまったく触ってないわけじゃないからそれなりに弾けるかと思いきや、なかなか難しい。
楽譜の上に1とか3とか書いてあって、これはなんだと思ったら、どの指で弾くのかが書いてあるのだそうで。何もわざわざこんな指でみたいなものがあったりしてちょっとイライラ。
ハノンさん、ちょっとひねくれているんじゃありません?

楽譜を渡した次の日から新さんは出張に行ってしまい、まだ一度もピアノを教えてはくれない。独学でやるにはあまりにも動機が不純なので、どうも集中力を欠いてはいるわけなのですが。
とにかく連日の雨で洗濯もままならず、暇で、ヒマで、ひまで、憂鬱で。
することがないとますます滅入るからって、ついついピアノの前に腰をおろしてハノンさんと格闘してしまう。
あああだからどうしてそこが3なのわっかんないなぁ!

「……新さんのアホ」
一連の流れを経て、ついにこの言葉に辿り着いてしまった。
いろいろ重なってるのが悪いんだ。
一週間、ろくに晴れ間も見せない空とか。
ゼミが忙しくて遊びにこないゆりりんとか。
先週仕上がってしまったパッチワークのベッドカバーとか。
こういうときに限って妙に長い、新さんの、出張、とか。
「やめた」
あたしには間違いなくないよ。ピアノの才能。
こんなご立派なピアノ練習曲を作った人と同じ名前でもね。
「やめちゃうの?」
楽譜を閉じてピアノに蓋をしてその蓋の上に突っ伏したとき。
真後ろから新さんの声が聞こえた気がして笑う。
幻聴まで聞こえてきちゃった、雨の日には魔物が住んでるわ。
「ねぇハノン? 寝ちゃったの?」
そう、寝ちゃったの。
幻聴でもあなたの声が聞けて気分がいいから。



ピアノの音色に誘われて目が覚めたら、ソファーの上でタオルケットをかぶっていた。あたりはすっかり暗い。どれだけ眠ってしまったんだろう、頭がくらくらする。
そしてふとピアノの方を見ると見覚えのある後姿。
「まぼろし?」
思わず口を付く。
すると、
「アホで悪かったね」
と背中が答えた。
アホで悪かった……?
「聞いてたの?」
「うん」
「じゃあさっきの幻聴も」
「幻聴じゃないよ、せっかく急いで帰ってきたのに寝ちゃうんだもん」
「だって」
流れていた音がやんだと思ったら彼はもう目の前に立っていて。
頭の上にあたたかい、体温。
「ごめんね」
「なんで」
「ピアノって、ひとりで弾いてるとなんか淋しいでしょう」
「え」
「僕いつもそう思いながら弾いてたんだ、僕はひとりだーって思いながら」
「暗い新さん」
「そ。ハノンがいない頃の僕はただの根暗な男だったなぁ」
ソファーの空いたところに座って私の頭をなでながらくすくす笑う。
「なんとなく想像できて嫌」
「さっきのハノンみたいな感じだったよ」
だからなんか、声掛けたかったのにかけづらくて。
と、小さく笑った横顔が久し振りに見た哀しい顔だったので。
「それよりピアノ教えてよ! 約束!」
思わず大声を出す。
「わかった。じゃあまずひとりで練習した成果を見せてもらおうかな」
答えた笑顔がもう哀しいものじゃないことに安堵する。



ひとりだった頃のことだってあなたがその顔で笑って思い出せるようになるためだったらなんだってする。
ピアノを弾くときも、楽しいことしか思い出せないように、あたしが、する。

2003.6.18

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